論文書く医者のための、壊れない知識ベース:Claude×Obsidianを"入れ子"で進化させた話

結論から言うと、Claude Code × Obsidian で作る「第二の脳」は、論文を書く医者にはそのままでは少し足りない。
足したのは、入れ子(ネスト)構造のナレッジベースだった。
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1. 論文2本目で、みんな"引用迷子"になる
論文を書いたことがある医師なら、たぶん身に覚えがある感覚がある。
1本目を書き上げた半年後、2本目で似たテーマを扱う。そのとき、こう思う。
- あの論文、どこに置いてあったっけ
- この定義、前に整理したはずなんだけどな
- PubMedで同じ検索を、また最初からやり直すのか……
実はこれ、一次情報(論文・ガイドライン・公式レポート)が"使い捨て"になっているサインだ。PDFを一度ダウンロードして、Word に引用を書いて、投稿して、投稿が終わったらそのPDFは「どこかのフォルダ」に沈む。
次の論文で同じ領域に触れるとき、ゼロから探し直す。専門領域の知識が蓄積されていないわけじゃない。「手元で引用可能な形」ではないことが問題なんだ。
2. Claude×Obsidianの"第二の脳"という概念
この問題の処方箋として、少し前にXで話題になった記事がある。mana さん(@MakeAICEO)の「[今さら聞けない!Claude × Obsidian、これはもう"違法"でしょ](https://x.com/MakeAICEO/status/2043674800888119512)」(2026-04-13 公開)。
要点はシンプル。
- Obsidian(ローカルのMarkdownフォルダ)を知識の箱にする
- Claude Code(AIターミナルクライアント)にその箱を任せる
- 生の情報を投げ込めば、Claude が要約・概念抽出・相互リンクをやってくれる
- 使えば使うほど、自分専用のWikipediaが育っていく
Obsidian Vault とは何か、簡単に補足しておく。Vault は、ローカルの Markdown ファイルの集まりを「保管庫」として扱うだけのシンプルな概念だ。特殊なデータベース形式ではなく、普通の .md テキストファイル。[[ページ名]] 形式の内部リンクとグラフ表示が標準機能で、クラウドに依存せず、フォルダを丸ごと Git 管理できる。Claude Code のような外部ツールも、フォルダパスを指定するだけで読み書きできる。
研究者視点で相性が良いのは、データ主権とツール独立性が担保されている点。Obsidian 社がサービスを止めても、自分の .md ファイルは手元に残る。いつでも別のエディタに移行できる。論文執筆と同じ感覚でバージョン管理ができるので、「変更の履歴を追える知識ベース」を持てる。
この発想の元ネタは、元 Tesla AI責任者カルパシー氏が提唱した「LLM Wiki」。AI自身が管理するWikiという考え方だ。
試してみると、確かに気持ちいい。記事を保存すると、Claudeが要約ページを作り、関連する過去記事とリンクを張ってくれる。
でも、論文執筆には、もう一歩必要だった。
3. 足りなかったのは「スコープ分離」
問題は、論文執筆中の作業と、普段の知識管理を同じ箱でやると、いくつかの摩擦が生じること。
具体的には:
- 情報衛生: 論文ドラフト段階の仮説や検討中の引用が、恒久的な知識ベースに混入する。半年後に別の執筆をするとき、未確定情報を誤って引用するリスクがある(これが一番深刻)
- 検索品質: Claude に「この論文の引用を整理して」と頼むと、論文と関係ない雑多な記事も検索対象に入り、回答の焦点がぼやける
- コスト: Vault 全体を走査する頻度が上がるので、セッションあたりのトークン消費も増える(大規模 Vault で顕在化)
必要なのは、論文プロジェクトごとに独立した小さい知識ベースを作り、完成後に大きい知識ベースへ統合する仕組だった。
4. 入れ子(ネスト)構造の設計図
結論、こういう構造にした。入れ子(ネスト)= 大きい箱の中にプロジェクト専用の小さい箱を入れる設計だ。
【本体】Obsidian Vault(恒久的な知識ベース)
└── knowledge-base/
├── raw/ 生データ(PDF・記事クリップ等)
├── wiki/ AIが管理する整理済み知識
│ ├── sources/ 原典要約
│ ├── concepts/ 概念・用語
│ ├── entities/ 人物・組織・ツール
│ └── syntheses/ 検索結果・総合分析
└── KB_SCHEMA.md スキーマ定義
【プロジェクト】D:\development\{論文名}\(執筆用の小さい箱)
├── CLAUDE.md スコープルール(「本体のvaultは検索しないこと」を明記)
├── research/
│ ├── reference/ 論文用PDFのraw
│ └── wiki/ ミニWiki(本体と同じスキーマ)
│ ├── sources/
│ ├── concepts/
│ └── syntheses/
└── .claude/commands/ プロジェクト専用スラッシュコマンド
ポイントは 「小さい箱」のスキーマが「大きい箱」とほぼ同じ こと。昇格(小→大への統合)時、ファイルをコピーしてパスを少し書き換えるだけで済む。
「本体 と プロジェクト をほぼ同じルールで動かす」、これが設計の肝だった。
5. Wikiエコシステムの4層
sources / concepts / entities / syntheses の4つは、役割が明確に違う。最初これが混乱ポイントだった。
| 層 | 何を入れる | 医療の例えで言うと |
|---|---|---|
| **sources** | 原典1つにつき1つの要約ページ | 論文1本の Abstract |
| **concepts** | 複数の原典から抽出された概念・用語 | 教科書の用語集 |
| **entities** | 人物・組織・ツール | 学会名・機関名・ツール名 |
| **syntheses** | 検索結果・総合分析・Q&A回答 | 自分の頭で整理した総説 |
論文を書くときは sources と syntheses を多用する。日常業務の知識整理では concepts が主役になる。
ここで注意したいのは、wiki/ の中身を書くのはAIの仕事だということ。人間が直接 sources/ や concepts/ に書き込むことはない。raw/ にPDFや記事を放り込むだけで、AIが自動で4層に整理してくれる。
つまり人間が覚えておくのは「どこに何があるか」だけ。論文の詳細なら sources/、用語定義なら concepts/、過去の総合分析なら syntheses/ を見に行く、という動線さえ掴めば、あとは AI が勝手にメンテしてくれる。
6. スラッシュコマンドの循環サイクル
箱だけあっても動かない。循環させる仕組みが要る。Claude Codeに覚えさせたスラッシュコマンドで、こう流れる。
本体Vault側(日常運用)
| コマンド | 動き |
|---|---|
| `/wiki-ingest` | raw/の素材 → sources/+concepts/ を生成 |
| `/wiki-compile` | index.md再構築・クロスリンク補強 |
| `/wiki-lint` | 矛盾・リンク切れ・Schema違反を検出 |
| `/wiki-query "質問"` | wiki横断検索、引用付き回答を syntheses/ に保存 |
この4つで、raw → wiki → 再利用 の循環が回る。
プロジェクト側(論文執筆時)
| コマンド | 動き |
|---|---|
| `/research-wiki-ingest` | reference/の参考文献 → プロジェクトwiki/に取り込み |
| `/research-kb-query "質問"` | 本体Vaultを読み取り、結果を reference/output-日付.md と wiki/syntheses/ の両方に保存 |
| `/research-wiki-promote` | 論文完成後、プロジェクトwiki を本体Vaultに昇格(重複時は統合確認) |
ポイントは `/research-kb-query`。本体Vaultの知識を論文側に引き込むだけでなく、同時に論文用の syntheses も生成される。論文執筆中、ここに加筆・深化させていく。論文完成時、深化された synthesis が本体Vaultに戻る。
つまり、本体Vaultは論文を書くたびに深化する。これがこの設計の一番気持ちいい部分だ。
全体の循環図
一次情報(PDF・公式レポート)
↓ /wiki-ingest(本体)/ /research-wiki-ingest(プロジェクト)
要約+Tier評価(sources/)
↓ 2ソース以上で昇格
概念ページ(concepts/)
↓ /wiki-query または /research-kb-query
総合分析(syntheses/)
↓ 論文執筆中に深化(プロジェクト側)
↓ /research-wiki-promote(完成後)
本体Vaultに還流(既存conceptsに「○○論文文脈」セクション追加)
使うほど知識の濃度が上がる。これが「第二の脳」の真髄だと思う。
7. 論文執筆そのものは専用スキルに任せる
ここまで作ったwikiは「知識の入れ物」で、論文本体を書くのは別の話。
私は academic-research-skills という Claude Code 用のスキル集を使っている。 → https://github.com/Imbad0202/academic-research-skills
これが本当に強力で:
- deep-research — 13エージェントでの文献サーベイ(PRISMA systematic review対応)
- academic-paper — 12エージェントで執筆、LaTeX / APA7 / IEEE / Chicago 対応
- academic-paper-reviewer — EIC + 3 Reviewer + Devil's Advocate で査読シミュレーション
- academic-pipeline — 10段階のフルパイプライン(research → write → review → revise → finalize)
このスキル集が、自分で作ったwikiの中の参考文献を読み込んで論文を書いてくれる。入れ子構造のミニWikiに参考文献が溜まっていれば、そのまま執筆の材料として参照される。
入れ物(wiki)と書き手(academic-research-skills)を組み合わせる設計。両者が分業できるから、どちらも強くなる。
8. AI支援執筆でのハルシネーションを、構造的に抑えられる
研究者は元々、一次情報を参照しないと論文が書けない。引用を手抜きする問題は基本的にない。では、この仕組みの何が新しいのか。
本当の価値は、AI支援で執筆するときに、AIのハルシネーション(事実でないそれらしい生成)を構造的に抑えられる点にある。
近年、論文の下書き・関連研究の整理・査読対応のドラフトなどをAI(Claude、GPT等)に任せる場面が増えた。ここで常につきまとう問題が、AIが生成する「実在しない引用」だ。典型的には:
- 実在しない論文タイトル・著者名・DOI
- 実在するガイドラインの古い版、誤ったセクション番号
- 主張と出典が微妙にずれている(近い内容の別論文が引用元になっている等)
入れ子wikiに一次情報をTier評価付きで登録しておくと、AIが参照可能な情報が「自分が読んで、Tier評価済みの原典」だけに絞られる。具体的には:
- AIが参照できるのは wiki の source 要約(原典パス・Tier・出版年を Frontmatter に保持)のみ
- 主張を書くとき、根拠が
[[wiki/sources/YYYY-原典スラグ]]形式で本文に紐づく - 読者・査読者・共著者が、主張の出典を1クリックで原典PDFまで辿れる traceability が確保される
結果、AIが下書きを書いても、出典を改変・捏造しにくい構造になる。既存のワークフロー(手動で正確に引用)の精度を落とさずに、AIの速度を使える。
ただし、この仕組みは「AIの誤りをゼロにする」ものではない。以下は継続的に人間の責任で行う必要がある:
- AIが生成した source 要約は、必ず原典で再確認する(要約段階でのハルシネーション検出)
- Tier 1-2 のガイドラインは改訂されるので、鮮度管理が要る(日本のガイドラインも毎年動く領域がある)
- syntheses(AIの総合分析)を論文本体に直接貼らない。原典を辿り直して、自分の言葉で書く
- Tier・版・セクション番号は、最終稿で必ず人間が検証する
AIが便利になるほど、「正しい情報を選ぶ」「正しく引用する」「最終判断は人間が担う」という行為の重みが増す。この仕組みは責任の重みを軽くするのではなく、責任を果たしやすくするためにある。
9. 初めて触るとき、ここで詰まる
これから試す人のために、「先回りメモ」を置いておく。私自身も最初はここで混乱した。
詰まりポイント1: sources と concepts の違い
設計上の定義はこう:
- sources = 1原典1ページ(論文1本、ガイドライン1版など)
- concepts = 複数の原典から抽出される抽象概念(「SOAP形式」「QLoRA」「電子保存の3要件」など)
ここで注意したいのは、この振り分けは AI が自動で行うこと。人間が「これは sources、これは concepts」と手で仕分けるわけではない。
実際の流れはこうなる:
- 人間は
raw/にPDFや記事を積む /wiki-ingestを走らせる- AI が各原典を読んで
sources/に要約ページを作成 - 複数の source で言及された概念を AI が検出し、
concepts/に full page を生成(それまでは stub) - 既存 concept があれば新情報源リンクを自動追記
人間の仕事は、上記の 1 と 2(「原典を raw に積む」「`/wiki-ingest` を叩く」)だけ。4層構造は使っているうちに自動で成熟する。
そしてたまに /wiki-lint を行って wiki をきれいに整理する。
詰まりポイント2: スラッシュコマンドの使い分け
- 普段の知識管理 →
/wiki-*シリーズ(本体 Vault) - 論文執筆時 →
/research-*シリーズ(プロジェクト内)
両者は別スコープ。プロジェクト内で /wiki-ingest は動かない(そもそも呼び出せない)。
詰まりポイント3: 論文完成 → 本体への昇格タイミング
- ドラフト段階で昇格させない。投稿 or 受理後が目安
- 理由: 未確定情報が本体Vaultを汚染すると、他の執筆作業で誤引用リスクになる
- 昇格時は synthesis を丸ごと移さず、加筆部分を対応 concept に深化統合するのを優先する(本体 Vault から引き出しただけの synthesis を戻すとエコーチェンバーになる)
詰まりポイント4: Tier評価は AI の自動推定、最終判断は人間
/wiki-ingest は AI が原典を読んで Tier を自動推定するが、推定が誤ることはある。よくある例:
- Preprint を Tier 1 と誤推定する(未査読なので Tier 3 が妥当)
- 専門家ブログの肩書検証が曖昧なまま Tier 2 と推定する(Tier 3 が妥当)
- 古いガイドライン(改訂済み)を Tier 1 のまま残す
生成された source ページの Tier フィールドは、他の論文で引用元として使う前に必ず目視確認する。この一手間を省くと、AIの誤判定がそのまま自分の論文の引用品質に直結する。
まとめ
- Claude×Obsidian の「第二の脳」は便利だが、論文執筆にはそのままでは足りない。スコープ分離が必要
- 本体Vault(恒久的な知識)と プロジェクトwiki(論文用の仮置き場)を入れ子にする
- 4層(sources / concepts / entities / syntheses)は AI が自動で振り分けて管理する
- スラッシュコマンドで raw → wiki → 再利用 → 昇格 の循環を回す
- 論文執筆そのものは
academic-research-skillsに任せる - 結果、AI支援執筆でもハルシネーションを構造的に抑え、出典の traceability が確保される
研究者として AI に文章生成を手伝ってもらう場面は今後さらに増える。そのとき本質的に問題になるのは、AIの生成物を自分の名前で出すときの出典責任だ。入れ子ナレッジベースは、それをかなり改善できる実用的な答えの一つだと思っている。
運用していて気づいたことがあれば、また書く。
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付録: この記事を元に同じシステムを構築する
この記事には、設計思想・ファイル構造・スラッシュコマンドの役割が整理されている。Claude Code にこの記事を読み込ませて、次のように依頼すれば、ほぼ同じ設計を自分の環境に再構築できる。
この記事の設計に従って、自分の環境にも入れ子ナレッジベースを構築してください。
私の環境:
- Obsidian Vault のパス: {あなたのパス}
- 論文プロジェクトのパス: {あなたのパス}
- 対象領域: {医療/AI/人文など}
AI が対話的に、フォルダ構造・KB_SCHEMA(Tier 1-5 の評価ルール)・スラッシュコマンド定義・CLAUDE.md(スコープルール)を順番に整備する。
この記事だけで再現できる部分:
- 入れ子のフォルダ構造(本体 Vault+プロジェクトミニWiki)
- 4層 Wiki スキーマ(sources / concepts / entities / syntheses)
- スラッシュコマンドの役割と循環サイクル
- 深化統合・エコーチェンバー回避などの運用原則
環境に合わせて詰める部分:
- 自分の領域固有の Tier 判定例(医療ガイドラインなのか、医学論文なのか等)
- 自動化の範囲(Task Scheduler 連携、Discord 通知、週次メンテナンスなど)
- 既存ワークフローとの統合
AI と一緒にセットアップする前提で書かれた記事、というのが建て付けだ。疑問があれば、記事の該当セクションについてAIに聞いて、AIと詰めれば十分再現できる。
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参考
- Obsidian(公式サイト). https://obsidian.md/
- mana「今さら聞けない!Claude × Obsidian、これはもう"違法"でしょ」X (旧Twitter), 2026-04-13. https://x.com/MakeAI_CEO/status/2043674800888119512
- academic-research-skills (v3.1). Imbad0202. GitHub. https://github.com/Imbad0202/academic-research-skills
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